私は自分軸、という言葉を多用する人が嫌いです。
大概は自分中心であることを肯定的にいい様に言い換えているだけの人が多いので。
そんな、その言葉を多用する人が嫌い、と言っている自分もそれを言っている今は
自分がさも正しい様に自分中心に自分の好き嫌いを発しているだけなのかもしれませんし、
会話でない話、独り言やこういう一方的に発する文章、または何かの講座や発表などでは、得てして人の話を聞かずに自分が発言することに専念するだけに
そうなりがちであり逆にそうであって初めて成立するとも思えます。
それを成立させるためには、持論であってもそれを正しいこととして自信を持って提供しなければならないのです。
そこで反論を受け付けるか、助けを必要とするか、もしくは助けを求めるか認めるか、それはその人の目線や立ち位置、自信のありようにあるかと思います。
自分軸とは自分をしっかり持てということだと解釈しています。
ちょっとやそっとじゃぶれない、しっかりした軸になる様に、自分をしっかり持て。と。
でもね、軸って中心じゃないこともあるんですよ?
うまくしないと振り回されるくらい大きく回っていないと立ってもいられなかったり、逆に吹き飛んでしまう軸だってあるんですよ?
工学とか力学とか、建築をやっていたときにちょっとかじっただけなのであまり大仰には言えませんけど。
私はバニラアイスクリームが好きです。
コーヒーが飲めないので、コース料理などでデザートにコーヒーアイスクリームがつく場合には
コーヒーがだめなので別の味にできますか?できなければ抜いてください。とお願いすることがあります。
以前ディズニーホテルのレストランでそのお願いをしたときに、キャストさんがバニラアイスしか用意できないのでバニラアイスでよろしいですか?と言われました。
クリームソーダかパフェ用にバニラアイスの用意があったんでしょうね。
もちろんいいに決まってるので、快く承知して、逆に差し替えてくれることにお礼を言ったのですが
そのキャストさんは他にもっと味の用意があったらよかったのですが、バニラでごめんなさい。と言いました。
昔の日本では特に、バニラアイスとはプレーンアイスであるという認識があった様に思います。
しっかりバニラフレーバーがついているのに。味がついていないアイスだと。
ソースやトッピングのあるデザートの土台に使われることも多いですしね。
確かにバニラという言葉は、何もない、フラットである、特徴がない、というスラングでも使われます。
私が子供の頃に食べていたバニラアイスは合成香料だっただろうし、そんなにいい香りだと思ったことはありませんでしたが
それなりに大きくなってからは深く甘い香りが好きになりました。
ストロベリーやチョコレートよりもバニラアイスを好んだ時期には、変な子供だと言われたものです。
(多分父親的には安いアイスが多いバニラを選ぶことが貧乏くさいと思われていたのでしょう。)
昭和の時代はバニラなんてホットケーキの香り付けくらいで、味の中心になんてしませんでしたものね。
ニューカレドニア土産にバニラビーンズを買ってきて、母親にこれで何かデザートを作ってくれ。と言って困った顔をされた記憶があります。
結局いつも作るパウンドケーキに混ぜられて、せっかく現地で特産の海外土産だったのになんの特別感もなく普通に使われてしまいました。
余談ですが、大天使ミカエルが近くに来るとバニラの香りがするそうですよ。
なかなか人間の近くまで降りてきてはくれない存在ではありますけれども。
自分のために生きていないなんてつまらない。
人のために生きたいとは思わない。
バニラアイスの様に美味しいソースをかけるための土台になんてなりたくない。
というのが、きっと自分軸を大事にしている人の主張だなと思っています。
でももうその時点で周りを気にしすぎてると思うんですけどね。
なんだかバニラスカイのマッケイブの様だなと思います。
自分が主人公として生きるためのシステムの中で、実はその主人公を助けるためだけの脇役であって、それが役割である以上はその主役がいなければ自分はたいした設定も存在しない軽い存在であり、主人公と同じほどの存在価値がないと思ってしまう。
自分が脇役だったことに気づいた時の無力感。
最初から脇役だと知っていれば熱演もするし、充実感もあるでしょうが。
そんな覚悟がなければ、自分が主役じゃなかったと気づいてしまった時のギャップに立ち直れなくなる。
自分軸を主張する人にはそんな危険がある様な気がして、私はそこまで主張ができません。
だって脇役だってちゃんとした役割だし、それがその人の本命なのであれば主役である必要なんてないもの。
主役だから上位的評価がされるという事実はあるけれど、一番上に行くことが本当の最上位ではないかもしれない。
てっぺんからの景色よりも、半分くらいのところにある展望台の方が景色が素敵かもしれない。
目指すゴールを間違えてはたとえ軸がしっかりしていても、ただ同じところで回るだけで何も生み出さないことになるかもしれない危険をわきまえなければならないと思うのです。
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