東京ディズニーリゾートのキャストがゲストに向かってする挨拶は「こんにちは」です。
決して「いらっしゃいませ」とは言いません。
それは、コミュニケーションとして、返す適当な言葉がないから。です。
いらっしゃいませ、には答えるべき適当な言葉がないからそれは一方通行で終わってしまい、コミュニケーションに発展しないから使わない。のです。
こんにちは、であればこんにちは。と返せる。
TDRにはテーマグリーティングというものがあり、エリアごとにそこに合う挨拶が付け足されることもあります。
イタリアがモデルになっているメディテレーニアンハーバーでは
ボンジョルノこんにちは。と挨拶します。
ゲストの方は無理にテーマグリーティングに返してくれずとも、こんにちはだけ返してくれれば良いし
もしくはそのままおうむ返しにボンジョルノ、と返してもらえれば大丈夫です。
(という理由もあってアラビアンコーストではアッサラームアライクムではなく、サラームと言います。
アッサラームアライクムは長くて覚えられないとともに、正しい返答がおうむ返しではなくワァライクムサラームであるため。らしい。)
挨拶をきっかけにその場の雰囲気をより楽しんでもらうとともに、そこの住人であるキャストと話をして、更に世界観を楽しんでもらいたい、という意図です。
相手の存在を認め尊重している意思表示でもあります。ようこそ、の気持ちを伝えるために。
わからないことがあればどうぞ声をかけてください、という意味でも。
声をかけやすい、話やすい環境を作るのはコミュニケーションの始まりです。
チョコレートドーナツという映画を見ました。
アラン・カミングは好きな俳優です。(以前インスティンクトについて書きましたねぇ)
あの映画に出てくる人は全員が「愛」を欲しています。
愛の形とか方向性とか受け答えとか、そういうものは人それぞれ様々であり、
かといってそれが本人や周りにとって良いのかどうか、世間的に許される愛なのかどうか、許されなければ排除するべきなのか、そこに愛があるだけじゃダメなのか、というお話でした。
今の私に圧倒的に足りない要素である「愛」のお話です。
今の地球にも圧倒的に足りない「愛」のお話です。
愛とはすべての源であり一方通行では存在し得ないものです。愛の押し付けは誰かを何かを愛している自分に酔うだけのただのエゴです。
愛はそれを受け取り自分からも愛を渡すもの、愛し合うことでそれは何倍ものパワーも幸せも持ちうるのです。
そこに愛があって当事者たちは幸せなのに、なぜ周りが妨害するのか。
誰も何も得しないのに、その正義感や倫理観は誰の、何のためなのか。
忌野清志郎はいつも「愛し合ってるかい?」と問いました。
オーディエンスに向けて一方的に愛してるよ、というパフォーマーは沢山いますが
愛し合っているか?と問う人はそれまでいなかったと思います。
くーさん(清志郎の愛称)はそれを分かって言っていたんだと思うと、なんと愛の深い人だろうと思います。
わかったふりではなく本当にわかっていて言える人ってそういないですよね。本当に素敵な人です。
私は自分から愛を投げても投げ返してもらえず、愛を投げて欲しいなんて思ってない人から豪速球をぶつけられたりして、今までまともな愛に触れたことがないなぁと思っていたところでした。
それなりに長い人生を歩んできて、今まで結婚してもいいかなぁって思った人いないの?と聞かれたことがあったのを思い出し
そんな人いたかなぁ?と考えていたところで、ああ、あの人だったら一緒にいて幸せになれたかも、と思い当たる人が一人いましたが
その人は私がそんなことに気づく前に病気で亡くなってしまいました。
もう20年近く前のことですが。
愛の形は人それぞれ、と言います。
それはあくまでも形の話であり、存在自体を指すわけではありません。
お互い愛を共有することができるのに、愛し合っているのに、形がおかしいと周りが言うべきではないのです。
愛が足りない私が、愛を問うこの映画を見てなんだか辛くなりました。
でもそこで愛なんていらない、とは思わない、とてもいいお話だと思います。
マイノリティに関して話題になることも多い昨今、今だからこそこの映画はたくさんの人が見るべきだなと思います。
愛とはコミュニケーションの発展したものなのだから。
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