誰かにとっての正義は、違う誰かにとって悪であることがある。
正義というものは必ずしも善とは限らない。
問題の正解というものも、計算上はそれが正しくとも必ずしもそれがいい影響を及ぼすものとは限らない。
誰かはその正解のおかげで自分のやっていたことが誤りや間違いだと気づいて、そのまま善の気持ちを忘れ自分の正しさを貫き通すため、正解を否定することに躍起になるかもしれない。
正義も正解も、誰かの出した問題や設問があってそれに対する正答であるのだ。
その問題について最初から反論する人に対しては必ずしも正答、正解ではないこともある。
鏡に映る自分の姿というのは常に逆を向いている。
正面から見ているつもりでも、それは左右が逆で決して正面ではない。
毎日見ている見慣れた自分は真実の自分ではないのである。
他の人が見ている自分は、自分がいつも見ている自分とは反転しているのだ。
自撮り写真を鏡像カメラで撮り、そのまま公開する人はきっとその自分が見慣れている自分と違うことに対する違和感を隠せずにいるのだろうが
それを見た他の人には逆にその方が違和感しかないことにも気付いていないのだろう。
内面に関しても自分で思い込んでいるセルフイメージは、言葉や服装などでわかりやすく伝えていない限り他人には知る由もない。真逆なイメージを持たれていることだって少なくない。
しかし昨今の風情として人が好きなことを否定するのはその人を否定することになりかねず、大小はあるとしても確実に本人にダメージを与えることであり、推奨される行動ではない。
確かに暴力や権力に後ろ盾された人格否定などは悪しきことであるが、そこをきっかけにとんでもない上昇が起こることも事実なのである。
高く飛ぶためにはいっぱいしゃがむ。遠くへ飛ぶためには長い助走を取る。一旦別の高いところへ上り、そこを下るスピードを力に変えてもう一つ隣へ高く飛ぶという手段もある。
位置エネルギーや重力加速度というものは理科で習うことだが、それが人間性や心理にも言えることだというのは誰も教えてはくれない。
ただ、それには言われたまま従ったところでうまくいくかどうかはその人の特性や力量が大いに関係する。
逆にうまくいかない人の方が多いのかもしれない。
万が一失敗しそのまま奈落へ落ちた場合に責任を取りたくないから誰も教えないのだろう。
相手にダメージを与えることがことごとく悪であるとされる現在、競争もなく屈辱感からの反発力もなく、社会がニューエイジ化していると思うのである。
筋トレの仕組みとしては、一度力量の限界を越えて破壊された上で、より強い筋肉を改めて作る。
つまり一度は壊れるまで、死ぬほど虐げないといけないのだ。
それは強い筋肉を作るためには正解ではあるが、その筋肉を人間に例えたなら確実に正義ではない。
人間の場合はただの筋肉痛で終わらずに、そのまま崩壊する可能性の方が高いからなのか。
それでは他の方法で強い筋肉をつけるにはどうしたらいいのか。
きっと崩壊を伴う筋トレよりも手間も時間も労力もかかる方法が提案される。
崩壊を防ぐにはそちらを取り上げるしかないのだろうか。
筋肉痛を和らげるために薬や風呂などで対応し、新しい筋肉が速やかに作られるようにタンパク質を摂取するという対症療法を含めることで肯定されることにはならないのか。
自分を変えたいと思う人は、今の自分に不満があったり理想の自分とかけ離れていたりするのだろう。
そしてその今の自分に対して、虐げるだけの消滅して欲しいと思うだけの恨みを持っていることさえある。
そこにあるのは自分を高める向上心よりも、自分自身であるが故に面倒くさいことにならないよう誰にも迷惑をかけずに誰かを出し抜きたいという思いではないのか。
そんな方法で成し遂げられると思うほど自分の価値を低く見積もっていること自体に問題はないのだろうか。
苦しさを知っているから優しくなれる。
辛い思いをした経験のある人を励ます際に使われる言葉だが、苦しみを知らない人は平気で人に苦しみを与える。とも取れる。
間違わなければ正解でなくても許容される。満点でなくとも合格点、及第点であれば十分。
それは正しいと言えるのか。
私は美術大学でプロのデザイナーになるための勉強をした。
プロというものは、一般人よりもちょっとできる。レベルではいけない。
突っ込みどころのないほど完璧なデザインが作れなければ、人からお金をもらえるデザインなんてできない。
そのデザインでないといけない理由と、他では代用できない理由がなければ、それを結論とは言わない。
その意気込みと覚悟がなければプロになんてなれない。
正しくなければ、それは間違いであり、間違いとは甘さの裏返し。
甘いところを許してしまえばそれは悪の入り口になりうる。
結局のところ、全ての悪は自分の中にある。
悪いことをする人はそれが悪いことだとわかっていてやるし、
騙される人も自分に得があると思うからこそ、あわよくばとうまい話に乗る。
法律も倫理も犯していないから、と言いながら相手に悪条件を押し付けるのも
犯罪ではないにしろ、正直ではなく相手のためになることでもない。
自分が優位の立つために誰かを踏み台にしたり馬鹿にしたりすることも、暴力を奮っていなくとも足蹴にしているのと変わらない。
悪いことだとわかっていて、やる。それが悪の始まり。
誰かに唆されたとしても、そうしないと自分が損するということでも。
悪があるということは、そのすぐ裏側、紙一枚挟んだ向こうに善がある。
悪と同じくそこにあると認めようと認めなくともそこにある。
形而上学として考えると必然的にそうなるが
形而下学、つまり科学的思考ではそれは正解でないとされるだろう。
問題を出しているのは自分なのだから、自分の答えが不正解であるはずがない。
その奢りが悪であるとも気づかない。
人間である以上、悪人と言われる人は存在するが
その人全てが悪であることはなく、また善人と言われる人も全てが善であるはずがないのだ。
ただ、悪の部分もあると認めること、悪の部分を持っている自分や人を許すこと、そして悪に囚われることなく生きることを努力すること、それが本当の正義なのではないかと思う。
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